郭沫若文庫の概要
郭沫若は近代中国が生んだ傑出した文化人です。その業績を見ると、マルキシズムを信奉する著名な歴史学者、古代文字学者であると同時に、中国の現代文化史上に際立った足跡を残した博覧強記、才能抜群の学者であったことが分かります。郭沫若の活躍は、まさに新中国の文化戦線に光り輝く旗印でもありました。その業績は多彩で詩・文学・史劇、中国古代史や古代文字研究においても優れたものがありました。また書においても中国を代表する書家の一人に数えられています。
「郭沫若文庫」は、郭沫若が日本亡命時代(1928年~1937年)に研究した図書・資料や愛用した文具などからなる文庫です。1950年代の半ばに郭博(郭沫若次男)を通して中日文化研究所(菊地三郎所長)に寄贈されました。
寄贈を受けた菊地三郎は、小倉正恒(元大蔵大臣、元住友本社総理事)とともに、当時の政界・財界人や文化人など著名な方々の力を借りて、「郭沫若文庫」設立の動きを起こしました。
「郭沫若というような個人の名をつけた文庫でなく、中国文庫でもなく、全アジアをつつみこむようなものを建設したらどうか」という郭沫若の意向もあって、「郭沫若文庫」は「アジア文化図書館」として開設され、アジア・アフリカ文化財団創立の基礎となりました。郭沫若の手拓本を中心に、日本亡命中に手掛けた研究活動の業績を裏付ける諸資料を所蔵していることが、「郭沫若文庫」の重要な特色であり、貴重な文化資産となっています。
市川市須和田時代の郭沫若とその家族。1937年夏に撮影。この直後に、郭沫若は日本を脱出し、中国における抗日運動に参加した。
沫若文庫を建てるに当って
父郭沫若は皆様も御存じのように青年時代日本に留学し、又後年、日本に亡命生活を送ること十年、その間に非常に日本と日本の皆様とは縁の深い人となりました。
昭和十二年、日本と中国の戦争を機として、父は単身中国に帰りましたが、今度小生が保管していた在日中の父の書籍を中日文化研究所に寄贈するよういって参りました。
小生は中日文化研究所の一理事を致しておりますので、先日理事会を招第して菊地三郎所長及び理事諸兄にはかりましたところ、沫若文庫を設立して父の蔵書を収め、それを中心に多くの現代中国作家の作品や書籍、資料を収集し、陳列して、広く世の人々の閲覧に供したらよいと意見が一致しました。これは日本と中国の文化の交流と友好親善のために非常に望ましいことと思います。ところが現在の中日文化研究所の施設では到底その目的にそいかねますので、なんとか施設の拡大を致さねばならないと存じます。幸い現在研究所施設には土地の余裕がありますので、拡大は可能であります。
実は小生この仕事を最後とし、出来るだけ早い機会に中国へ帰りたいと思っておりますので、この沫若文庫が皆様の御助力により立派に出来上がり運営されていくことを願ってやみません。且しく御力添え願う次第です。
郭博
(註)上記は郭博氏が沫若文庫建設の進行を喜んで離日直前の1955年1月中日文化研究所のために書き残されたものである。
開館時のアジア文化図書館
現在のアジア・アフリカ図書館
中国古代史研究
郭沫若は中国共産党による南昌蜂起の失敗後、日本へ亡命し、十年間千葉県市川市須和田に住んでいます。このとき文求堂書店の田中慶太郎、東洋文庫主任の石田幹之助、燕京大学教授の容庚などの協力を得て、中国古代史研究に没頭しました。代表作である『中國古代社會研究』は、中国の伝統的歴史観(『史記』などによる王朝変遷史)に対し、マルクスの唯物史観に基づき、“奴隷制は西周まで続き、春秋時代以降が封建制である”としたもので、西洋思想は中国には通用しないとする伝統的歴史観に対し、実証的な研究による新しい歴史観を示したものでした。中国に戻ってからも中国古代史研究の成果をまとめた『政道時代』、『十批判書』、『奴隷制時代』を出版しました。
『中国古代社會研究』(1931年、郭沫若著)
『史記』(1927年、司馬遷著)
『奴隷制度史』(1929年、J.K.イングラム著 辰巳經世訳)
『安陽發掘報告』(1929年、國立中央研究院歴史語言研究所)
中国古代文字研究
郭沫若が中国古代文字の研究を始めたのは、日本に亡命した時期で、古代中国の研究を行うにあたり、甲骨文字や青銅器に残された銘文の理解が必須と考えたためでした。郭沫若は小石川にあった東洋文庫に通い、殷・周時代の歴史史料である甲骨文・金石文の研究で著名な王国維や羅振玉の著書を熟読し、それを短期間で習得しました。全くの素人から独学で修めた研究にもかかわらず、わずか10年の亡命期間中の研究によりこの分野における重要な著書を多数残しています。
甲骨片
『両周金文辭大系考釋』(1935年、郭沫若著)
『卜辭通纂』(1933年、郭沫若著)
文学
自伝
郭沫若は、生誕から抗日戦争参加にいたるまでの波乱にとんだ半生を、時代ごとに『我的幼年』『反正前後』『黒猫』などに著しています。これらの自伝は激動の時代の郭沫若を知る上の貴重な証言でもあります。
『黒猫』(1932年)
『反正前後(辛亥革命前後)』(1929年)
『我的幼年(私の少年時代』(1929年)
翻訳
九州帝国大学医学部に入学した郭沫若は、幼少期の病気で聴覚に問題があり聴診器が使えないことに気づき、医学を諦めざるを得ませんでした。しかし、医学部の学生としてドイツ語、英語を習得したことが、タゴール、ゲーテ、ハイネ、シェリー、ホイットマンなどの西洋文学から大きな影響を受けて文学的才能を開花さます。そしてゲーテ、ツルゲーネフ、トルストイなど各国の数々の名著を翻訳し、新しい思想を求める中国に西洋近代文学を広める役割を果たしました。
また、1924年に河上肇の『社會組織と社會革命』を翻訳して『社會組織与社會革命』を著しました。この翻訳によってマルクス主義の思想から大きな影響を受け、歴史観や文学観にも大きな変化が生まれました。
A.Michaelis 著の『美術考古學發現史』(1931年)
ゲーテの『浮士徳(ファウスト)』(1928年)
トルストイの『戦争と平和』(1931年)
詩
郭沫若は、ロマンチシズムの詩人として、古くから中国文学の主流であった旧詩(文語定型詩)に代わり、新詩(口語による自由詩および新定型詩)を発表し、中国の現代新詩の基礎を築きました。代表作となった第一詩集『女神(じょしん)』は、日本留学中の作品を含む54首の詩と「女神の再生」など3編の詩劇からなり、因襲への反抗、自由への憧れ、新しい文化創造の情熱という時代の精神を体現するものとして若者たちの心を掴み、爆発的な人気を得ました。また、『瓶(つぼ)』は、1926年の『創造月刊』第一巻第二号にのった恋愛詩集で、郭沫若が革命文学を唱えだす直前の作品です。
『瓶(つぼ)』(1928年)(1931年)
『沫若詩集』(1928年)
史劇
史劇には、古代中国の文学作品に現代の中国や郭沫若自身を投影しているものなどがあり、郭沫若は『屈原(くつげん)』『虎符(こふ)』など6編の史劇を著し、その中には彼の世界観が広がっています。
『屈原』は代表的な史劇で、楚の政治家・詩人であった屈原の生きた時代に当時の中国の状況を重ね合わせた作品です。完成した年に重慶の国秦影劇院で上演され、延べ30万人近い観客が詰めかけたほどの熱狂を博しました。
『屈原』(1933年)
『屈原研究』(菊地三郎所有)
書
郭沫若は、顔真卿など中国を代表する書家の作品を研究して独学で書を学びましたが、その腕前は現代中国を代表する書家の1人だと評価されています。郭沫若の書は中国国内の文化施設の看板などいたるところで見受けられるほど多く、さらに日頃から知り合いの人々に自筆の書を贈っていたこともあり、多種多様な作品が残っています。字体は行書体と草書体の作品が多くみられますが、郭沫若独自の書風といわれています。
「萬巻書楼」は、書家の書斎名としてしばしば使われている。
籠中の一天地、天地の一鶏籠(けいろう)。飲啄(いんたく)は吾が分に随(したが)い、和調(わちょう)は此の躬(み)に頼(よ)る。高飛(こうひ)も何ぞ羨(うらや)むに足らん、巧語(こうご)も徒(いたず)らに戎(いくさ)を興(おこ)すのみ。黙黙還(ま)た黙黙、幽(ひそ)かに道と通ずるを期(き)す。岩邨先生の嘱(しょく)により書す。郭沫若。
にわとりの姿に、老荘的な道を体得した理想人のありようを寓したものと思われる。
清江(せいこう)の使者、安陽(あんよう)を出づ。七十二鑽(しちじゅうにさん)、軆(たい)は章を成す。頼むらくは君、新たに余且(よしょ)の網を有(たも)ち、人をして長く静観堂(せいかんどう)を憶(おも)わしめんことを。彦堂(げんどう)先生、素縑(そけん)の摹篆(ぼてん)・殷虚(いんきょ)の陶文(とうぶん)を以(もっ)て惠贈(けいぞう)せらるるに此れを賦して以て報(ほう)ず。郭沫若、江戸川の畔(ほとり)に書す。
新発見の甲骨資料を送ってくれた董作賓への感謝と賞賛、そして今後のさらなる成果への期待を述べ、 また不幸な死をとげた王国維への敬慕の想いをこめたものである。
三鷹市立南部図書館における「郭沫若文庫」の展示
三鷹市立南部図書館(三鷹市新川5-14-16、当図書館1F)では「郭沫若文庫」を紹介する常設展示が行われています。
どなたでも観覧可能です。
南部図書館みんなみ
「郭沫若文庫」展示コーナー